Life is R&R①
Life is Rock’n Roll (院内新聞Double Fantasyより抜粋)
John Lennonその①:In My Life
*以前院内新聞に載せた内容を一部変更しています
ついに!とうとう!やっと!この日がやってきました。ジョン・レノンです。
まず知らない人もいると思いますので、そもそも彼はあの(どの?)ビートルズのリーダーで、テレビでクリスマスに流れる”Happy Christmas”の作者であり、ニュースやドキュメンタリーでよく流れる”Imagine”や”Give Peace A Chance”や”Power To The People”の作者です。なんせJohn Lennonなのでその①その②その③に分けて書いてしまいます。
まず今回その①は、彼が何を考えて人生を生きたかをテーマにしたいと思います。
彼の40年の人生で最も影響を与えたと思われる人物を挙げると、Julia(母親)、Mimi叔母さん(育ての親:Juliaの姉)、Paul McCartney(ビートルズのベーシスト)、Yoko Ono(小野洋子)と圧倒的に女性が多く、常に母親像を投影するパートナーと一緒に暮らしています。最初に結婚したCynthia(シンシア)とMay Pan(メイ・パン)は彼の生き方を変える相手ではありませんでしたので、割愛します。Paulは重要人物ですが、次回に主に登場しますので今回は出番がありません。まず何といっても実の母Juliaです。彼女はとても自由奔放な人だったようで、船乗りであったJohnの父親と離婚するとJohnを姉のMimiの家に預けます。残されたエピソードから考えるとMimiはJohnをちゃんと躾ようとしました。時々遊びに来る楽しい実の母親と厳しい育ての母親のジレンマの中で、幼少時代をすごします。ある日Johnに会いに来たJuliaは、別れ際に見送るJohnの目の前で車に轢かれて死んでしまいます。両親の離婚・自分の父母のどちらを採るかの選択・選んだ母親との別居・母親の突然の壮絶な死が以後の彼の人生を決定しました。
彼は学校の勉強は全くしませんでしたが、頭が良く絵や本が好きでブラック・ユーモアに富む子供でした。リバプールは港町で、船員が持ち込むアメリカのR&B(リズム&ブルース)のレコードが他の地域より手に入りやすく、彼はすぐにR&B(特にギター・ロックン・ロール(R&R))のとりこになりました。アウトローを気取っていたかれは、既成のポップ・ミュージックと違ったbeatの効いたsoundに取り憑かれました。すぐにBandを作り、もちろん自分がリーダーかつボーカルでありRock’n Roll Heroが彼の目標となりました。この頃Paul McCartney, George Harrisonと出会いBeatlesを結成します。以後は美術学校に進学するも、Band活動に打ち込み、あれよあれよと言う間に世界のBeatlesになっていきます。今ではわからないでしょうが、彼らは世界の流れを、髪型・ファッション・生き方も音楽を通して変えてしまいました。有名になりすぎた結果、あまりのファンのすさまじさのためにBandはコンサートを行うことも不可能となり、あの楽しかったR&R Bandで楽しい人生を送るという夢はかなえられず、自分の精神世界内に逃げ込むことになります。彼の歌はそれまでのLove Songとは異なり自分の内面を見つめ、歌で感情を吐き出す方法となってゆきました。なんでも鑑定団で最初に流れる”Help!”は、彼の心の叫びでした。彼は自分の内面の心情を歌にする方法でしか、音楽活動を続ける意味を見出さないようになりました。
さあそこで現れたのは小野洋子です、彼女は以前よりNew YorkでYoko Onoとして知られていた前衛芸術家でした。Johnは自分があこがれていたR&Rスターになっても全く心は満たされませんでした。お金はふんだんにある。しかしあまりの有名人のために人前に出られない。自分が望んでいた人生(R&R Hero)はこんなにむなしいものだったのか?と自問自答していたと思われます。小野洋子は戦前銀行の頭取であった父親の娘として生まれ、幼少時から国際感覚を自然と身に着けていました。彼女は正式なクラッシックの音楽教育をNew Yorkで受け、さらに前衛的な現代音楽に出会い、1960年初期より東京・New Yorkで音楽・パフォーマンスを含めた総合芸術家として活躍していました。Johnは、Londonで行われたYoko Onoの個展に誘われ、そこで小野洋子と出会います。洋子はJohnより7歳年上で、理論的だけではない肉体的表現を加えた芸術を実践しており、既成概念を崩すという意味において真の前衛芸術家でした。洋子は彼の知らない世界を色々と知っていました。彼は音楽を含む芸術に対する表面的ではない接し方、洋子独自の方法論に感銘を受けます。彼女はJohnがすでに手にしたお金・名声以外の、彼が持っていないものを全て持っていました。さらに年上であり、知的な面に加え、母親とも言える包容力を持った眩い女性に映ったことでしょう。彼女はJohnにとって真に心が開放される女性であり、最良のパートナーに見えたでしょう。
Johnは元来既成概念・権力を嫌い、Rock’n Rollerとして生きることでタフガイを自分のイメージとしていましたが、前衛芸術を自分のキャリアに加えることで、自分の生きる方向を見出しました。しかし東洋人の女性と再婚し、2人だけの世界に入り曲の録音時にも彼女を同席させるようになったことで、Beatles内部および世界中のFanからも(もちろん日本人も含む)嫌われ、最終的にはBeatlesを解散させたのはYoko Onoだといわれていました。今ではそれが間違いであったことが最近のGet Back(以前のLet It Be)のfilmの中で確認できると思います。
Johnは自分の心の内面を歌にすることとなり、歌詞は普遍的な人間自身及び世界全体を見つめなおすグローバルな内容と変化をしていきます。この頃日本語名“ジョンの魂”というアルバムの中の最初の曲”mother”で完全に母親の呪縛から開放されます(歌のイントロはお寺の鐘の音に似せて作っています)。そして他の曲”God”で、「信じられるのはYoko and Me」と歌います。その後はJohn & Yokoで平和運動や女性解放運動などを中心とした音楽とパフォーマンスを行い、その発言の与える影響力から要注意人物としてFBIから監視され続けていたようです。Sean(ショーン)が生まれてからは音楽活動を一切やめ、主夫(house husband)となり子供の世話・子育てを一手に引き受け、小野洋子に全てのビジネスを任せます。世間から隠遁した生活を送った後1980に音楽活動に復帰することとし、再度レコーディングを行います。一曲目は”Starting Over”という再び音楽活動に復帰する決意の歌だったんですが、この歌も鐘の音(チャイムの)から始まります。レコードが発売されてすぐに彼は自称彼のファンから銃殺されます。レコーディングが終って自宅のDakota Houseに入る時に小野洋子の横で撃たれました。まるで母親が死んだのを目の前で見たJohnの様に、今度はYoko Onoが夫の突然の死を目の前で見る事となりました。
その時まで世間はJohnの活動やBeatlesを解散してからの彼の曲をあまり認めていなかったのですが、死んでしまうと急に彼は平和の使者のように扱われ、曲も急にもてはやされる様になったのは皮肉としか考えられません。今では当たり前のように”Happy Christmas”が街で流れますが、私は複雑な気持で何か違和感を感じます。お寺の鐘で母親のトラウマから解放され小野洋子という最高の人生のパートナーを見つけ、自分の子供を普通の父親として育て、再度Rock’n Rollerに戻ろうと決意したその時鐘の音と共に死んでしまいました。彼の人生は常にRock’n Rollと共にあり、すばらしい曲は、彼が死んで今世紀に入りやっと世間に理解されるようになったように感じます。
次回はJohnの音楽特に歌詞について中心に書きます。もちろん今回の内容と連動しますが、Paul McCartneyとの関係が大きくなります。
To be continued
Yoko Onoは声を発することにより、周りの環境を振動共鳴させ、まるで自らを楽器そのものと変えるパフォーマンスを行っていましたが、誰からも理解されませんでした。それは一般のリズム・メロディーを越えた音楽であり、自分のBodyとVoiceのみで音楽が形成されていたために、音楽関係者も含め当時は誰も理解できず、単なる金切り声の雑音としか認識されていませんでした。(唯一John Lennonを除いては)